【きらり健康生協 機関紙「いのちの炎」より】
2020年11月号
◆私はいわゆる脱サラドクターだ。なぜ医師になったか、初稿なので、まずは私のこれまでを…。◆千葉県野田市出身、現在四十七歳。両親は農家生まれで兄弟も多く、中学卒業後、働きに。父はダンプで砂利の運搬をする一人親方、母は主婦。両親から勉強しなさいと言われたことはなく、読書や料理、裁縫、家庭菜園など、生きる上で必要な術を教えられ育った。◆私が中学生の時、父は癌を患い、三年に渡る闘病の末に他界。父の死を契機に医師に強く興味を持ったが、経済的理由もあり、家から自転車で通える一般大学に進学後、寮のある都内の教育系企業に就職した。教育産業に携わる日々は忙しく充実していたが、人に近いところで働ける医師になりたいという想いは捨てきれず。三年ニヶ月勤めた後に退社し、半年間の猛勉強を経て国公立大学で学生寮がある医学部を受験。福島県立医科大学には、当時築六十年程の木造平屋、風雪を凌げる程度の自治寮があった。週五日朝夕食付き光熱費込で月一万五千円前後と破格の条件だった。洋服や家具、車は同級生や先輩達から譲り受け、男だけ四十名弱、十二畳仕切りのない部屋に四人で過ごした日々はまさに奇想天外な出来事の連続だった。つづく
2021年2月号
前回は私のこれまでを書いた。次回の執筆は数年後か?と思っていたら、ありがたいことに要望を頂いた。◆渡利の福島県立医科大学の寮をご存知だろうか。現存する鉄筋コンクリートの医大寮にはかつての面影はない…私が六年の時を過ごした木造の医大寮は東日本大震災を機に約七十年続いた歴史に幕を下ろした。学生が運営する自治寮。屋根裏にはかつて学生運動で使用したであろう角材やヘルメット、刈り板印刷機が散乱し、ハクビシンが住み着いていた。全十六部屋。上級生との相部屋で、私も五年時は十二畳を後輩三人と共有した。腐った畳の上にゴザが敷かれ、塗り壁には穴があり、冬の朝、枕元に穴から吹き込んだ雪が積もっていたこともある。基本ジャージで過ごし、真夏はトランクス一丁。電力の問題でエアコンはなく、夏は扇風機と一日三回のシャワーで福島の酷暑を凌いだ。テレビのある食堂に皆で集い、毎晩のように嗜む大五郎は、グラスでなく、お椀で乾杯。すぐに手が出る武闘派と呼ばれる輩がいたり、学年一と名高いイケメンがいたり、今思うと青春ドラマが一本作れそうなくらい個性派揃いだった。また、寮には伝統的に続く特殊な数々の恒例行事があった。つづく